率直にものをいう

こないだの台風で、私が小さい時からお世話になっていた地元の神社が相当荒れたとのこと。

 

水の神さま思子淵(シコブチ)さん。

子どもの日のお祭りでおみこしを担いで来たこと。

境内に敷き詰められている平べったい石がきれいで欲しくなり、家に持って帰って怒られて、泣く泣く返しに来た思い出。

神事の風習で、きゅうくつな着物を着せられて真っ赤な口紅塗られて、あっかんべーした写真。

…と、いろいろ思い出深い場所なのです。

 

数日後、バタバタがひと段落してから、おそるおそる見に行ってみた。

モミの大木が境内の空間をかち割り、杉がなぎ倒しになって参道をふさぐ。石の鳥居もバラバラになった。まるで映画のよう。目が点になるって、このことかと思う。

この神社には私のお気に入りのタラヨウの木があった。

厚手の紙のようにしっかりした葉っぱ。裏に手紙を書いて遊べる。宝物のように思った便箋。

モミの大木がタラヨウの細い幹に覆いかぶさり、重さに耐えきれず根が浮いてしまった。倒れてしまっても、枝先にはつややかな光沢のある緑色の葉が無数に生い茂っていた。まだこの葉っぱたちは、この木が折れてしまったことに気が付いていないのかもしれない。

「自然淘汰」という言葉もあるけれど、個人的に思い入れのある木や風景がなくなってしまうのは、やはり淋しいことです。(仲良しの木が手をつないで涙ぐんでいるような漢字だね)

@2017.11.22

渡り鳥の季節

渡る日には、一日に何千、何万もの鳥が空を通過するというから、晴れた日には、ちょっと上を向いて歩こう、という気持ちになる。

ヒトが飛行機を使って旅行する距離を、鳥たちは何にも頼らず自分の体ひとつで移動していくのだから、それがどれだけ大きな事か、想像できる。

エネルギー源は、渡りの為に蓄えた脂肪。途中、中継地などでうまく食糧を補給できなかったりすると、目的地まで渡り切れず、竜骨むき出しになって死んでしまう鳥もざらにいるらしい。

 

いかに、効率よく飛ぶか。鳥の航空力学。

風向きや風速、気流の流れ、適切な高度、天候…などに最大の気を使って飛ぶ日を決める。

鳥たちは風のことを驚くほど理解していて、自分の体力と風の案配を本能的に見定めている。

風を捕まえ風に乗る。羽が力強くしなる。

凛凛しい。かっこいい。

ぐじゅぐじゅ言ったり躊躇したりしないんだろう。

身体と知恵をフル稼働させて、困難な旅を成し遂げている。

 

今、秋の大空で、壮大な大自然のドラマが繰り広げられている。

 

そのことを頭の片隅に置いて、明日も頑張ろうと思う。

稲刈りが終わったら、刈り終わった田んぼの空き地で、飛行機飛ばしをしよう。

@2017.9.17

「小さな空」武満徹

青空見たら 綿のような雲が 悲しみをのせて飛んでいった

いたずらが過ぎて叱られて泣いた 子どもの頃を憶いだした

 

夕空見たら 教会の窓のステンドグラスが眞赫に燃えてた

いたずらが過ぎて叱られて泣いた 子どもの頃を憶いだした

 

夜空を見たら 小さな星が涙のように光っていた

いたずらが過ぎて叱られて泣いた 子どもの頃を憶いだした

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ホンジュラスに居た頃、寝る前によく聴いた。

乾燥した砂埃の舞うホンジュラスの田舎の街。

日本語のあったかさに、心がしっとりとぬれる。

仕事が休みの土日には、いつも何か予定を入れてしまって、OFFな気持ちで出かけることが、そういえば最近ない。

いい天気の日曜日、えいっ!って出かけてみよう。

行先は海。決まって海。

かなしいときは海を見に行く。寺山修司の詩にあるとおり。私は、楽しい時には海には行かない。今日はかなしいわけではないけれど、ちょっとくすぶる感傷的な気分を広い海に委ねると、なんだかこれから先ずっと何とかやっていけるような気持ちになれる。

大学生の時から変わらない、何かと海を求める性質。

海のように大きく優しい決心をしよう。

@2017.6.11

春を意識する

雪がとけて、いろんなものが顔を出す。

ぺちゃんこの白菜、とんがり帽子の冬芽、雑草の芽吹き、へろへろのネギ…

一冬ようがんばったなぁ、と挨拶せずにはいられない。

お昼間、はだしでクロックス。

朝干した洗濯物が昼には乾く。

ストーブつけなくても着替えられる。

丸太に座ってのんびりほるんが吹ける。

こんなに春がうれしい年も稀。

 

一日家でゆっくり自然を俯瞰してみると、面白い発見がある。

鳥のおしゃべりが意外と大声なこと。

時折小さな竜巻が沸き起こって、落ち葉がくるくると舞っていること。

陽が傾いてくると、川の音が大きくなってくること。

影がのびてくると光の凹凸がくっきりきれいなこと。

 

仕事で一日出ていたら、気が付かないことだらけ。

普段私が町で仕事をしている間に、山ではこんなに素敵な出来事が日々繰り返されている。

切ないなあ。

本当に大事なことを知らないまま、人生を浪費する。人間の世界では、よくあることかもしれない。

@2017.4.4

オフな休日、外に出て家の周りのいろんなものにちょっかい出してみる。

@2017.4.2

自分で自分の生き方を決める

 

大津へ向かう道中、あるきついカーブでスピードをゆるめると、左の道沿いの木の枝に、きれいな黄緑色の繭がぶらさがっている。

毎週ここを通るたび、この繭が目に入る。

ウスタビガの繭。

冬の間、雪の日も木枯らしの日も、ずっと同じ枝に同じ格好でぶら下がり続けた。

いつもひとり寒い風に微妙に揺れて。

どうしてここに住むことにしたんだろう。

 

限りない空間の中に生まれ、自分ひとりで冬越しする枝を決め、自分ひとりで繭を作り、自分ひとりで閉じこもる。春が来て、自分ひとりで羽を広げる。

自分のことは自分でする。シンプルな道理。

 

ウスタビガの繭が、とても凛凛しく、私の目には映った。

 

風とのお話

冬が終わりを告げようとしている。

春一番の風。

屋根に干した洗濯物がどこかに飛んでって。

今朝、鳥のエサ台に置いたひまわりの種もあちらこちらに散らばって。

あ、今日は水曜日。

ゴミ出すついでにくるくる散歩。

寒そうだからニットのベストを羽織っていこう。

あまり車の通らない道だから、道の真ん中をふらふらてくてく。

青空に残雪がまぶしい。

あの木なんの木。あぁ、誰かが植えたメタセコイア。

栃の冬芽はどうかな。日差しを浴びてテカテカ光っている。

…と、後ろから車の低い音。

振り返れば、閑散とした一本道。

木々が揺れる。山が高鳴る。電柱がうなる。

風が近づいている。

あたりがざわめき出す。

来る、来る。

私の背中をぐいっと押してくる。

やがて私もひっくるめて、木も山も家も私もみんな風の中。

こうして春がめぐってくる。

風は折をみて、私に話しかけてくることがある。

今日の風もまた、そんな一種の感情を持った風だった。

@2017.3.22

トチノキ発表会@2017.3.18

巨木と水源の郷をまもる会主催のイベント。

主催側なのに年々そういう意識が薄まりつつある自分にげんこつ。受付名簿なんてすっかり忘れる。

熊谷道夫先生の琵琶湖の講話、最初は土星から始まり、物理学的な渦のエネルギーの話に、自分の脳の限界を感じましたが…一般市民の私は、私の行き届かないレベルの世界で、琵琶湖のことを真摯に思って研究を続けている方がおられるということに一種の心強さを感じました。

先生は、琵琶湖の還流を「世界で最も美しい渦」とおっしゃいました。

なんだか、滋賀県で琵琶湖に育まれて暮らしていることが、すごく素敵なことのように思えます。

専門用語は、研究者だけでなく一般の人々の生活に浸透してこそ、初めて意味を持ち始める。みな、知識としては何となく知っている琵琶湖の”全循環”という言葉が、少しずつ定着しつつあることは嬉しいこと。

先生のおっしゃる、2030年頃に訪れるであろう”急激な変化”。今の小学生や中学生の子どもたちが社会を担う時。

暮らしの中の、自然に対する気遣い、一粒一粒。

白色に閉ざされる時

今日は冬の貴重な晴れ間。朝7時、霜が真っ白に降りてカツンカツンの氷の世界。すがすがしい青空。日の光が射し始めるとじゅるっと緩んで水になる。日中はここぞとばかりに布団干し。屋根びっしりに布団や枕や洗濯物を整列。壮観。

そして、明日は曇りのち雪。その後、四日続けて雪マークが並ぶ。

「とうとうやな」「ついに来るな」

きっと、この雪が今年の根雪になるだろう。

大地、草、木々、何もかもが真っ白になって、春までさようなら。

雪は全てのものを隠して真っさらにしてくれる。この浄化作用に感動しながらも、しばらくすると色んな色が恋しくなる。

今日はちょっと切ない眼差しで、いっときの太陽の光を存分に浴びて輝く風景を、窓から見ていた。

 

@2017.1.7

中野の思子淵さんにお参り。お母さんと、小さいときみたいにてくてく歩いて。

苔でふかふかの参道と大きな樅の木。透明感のある空気に時折、野いちごの赤色がちらほら。

神社の平べったくて丸い石、子どもの頃持って帰って来て怒られた思い出。

手水舎の横にタラヨウの樹。分厚い葉っぱが素敵。お母さん、持って帰る。

生まれ育った地の神社は、いつになってもどこにいても、年に一度は立ち帰る処。

@2017.1.2

能家のおじいちゃん

すまんのうすまんのう

はよ子どもの顔が見たいー

あんたらおってくれるさけ助かっとんやー

利口なもんやのー

もうこの足がいうこときかんで

昔ぁ山行って飛んで歩いておったんやけの

あんたら能家におってくれや

 

片手を腰の背に当てて、背中はぐるんと曲がっているけれど、ゆっくりゆっくり、小言を言いながら、軽トラでやってきて、いつも労いの言葉をかけてくれる

田植えと稲刈りの時期には、田んぼに顔を出してくださり、背広の襟を正して、あらたまった言葉でご挨拶をしてくれる

7年前、能家から田んぼが絶えて、ススキ野原に朽ちかけた時、能家に住処をおいた宮内くんが、ひとりで茅株を起こし始めた

何ヶ月もかかって道沿いに田んぼが復元し、田んぼにさらさらと水が入って、蛙が鳴き出し、黄金色の穂が実って、能家の12段の稲木が秋空にすくっと立ち上がったその風景に、おじいちゃんはこの限界集落に未来を見いだしたのだと

田んぼがよみがえって数年の間に、冷たく澄んだ山水を好んでイモリがわいわいと暮らしだし、ホタルの光がぽつぽつと戻ってきて、水鳥が羽を休めるようになり、今や10人も住まない能家の静かな界隈が、田んぼの生き物に圧倒されている

 

昔の話を聞いておかなきゃいけない

風化は免れないが、放任はいけない

 

今年の冬の始まりは、初雪が染み入るような冷たさ。涙と同じようにじわっと、水分の多い雪は、手のひらの上でとけてすぐに水になる。

道沿いのお地蔵さんは、「よう帰ってきた」といつも私を迎えてくれるのに、おじいちゃんがいなくなってしまったせいか、ことんと置物のように黙っている

@2016.12.13

どんぐりこ
どんぐりこ
オジギソウの花火
オジギソウの花火
オジギソウの葉をぱたん。ぱたん。出かける前のほのかな日課。
オジギソウの葉をぱたん。ぱたん。出かける前のほのかな日課。

ありさんのひそひそ話のような

ゆでた卵のからの内膜のような

生まれたばかりの朝露のような

顕微鏡のカバーガラスのような

やけどでただれた皮膚のような

小さなアブラムシの命のような

冬の樹のうろの温かさのような

それはまるで

空気に触れるとすぐに変色してしまいそう

ちょっとそよ風が吹くと消えてしまいそう

重力だけでもぼろぼろと崩れてしまいそう

 

優しさとは、悲しく傷つきやすく恥ずかしくもろい

それ故、誰も知ることなく、音も色もなく生まれて消える仕組み

複雑なように表現したけれど、印象は素朴

優しい音が集まったら、この上なく優しい音楽ができあがるのかな

一握りの優しさを、ピクニックのサンドイッチみたいに、みんなが持ち寄って、葉っぱの絵の描いたレジャーシートに広げる。

心は重くても身体は常に浮く
心は重くても身体は常に浮く

カメを動かす時間

仕事に行くのに、毎朝車を走らせる。

くねくねの山道と小さな集落、田んぼと川が順番に出てくるひなびた県道。

時折、道に石がごとん。よくシカが斜面を歩いて落としていったり、雨で崩れたりしている。

タイヤとタイヤの間、車でまたごうとすると、「ん?」

軽くブレーキをかける。

この台形は…

やっぱりカメさん。

車を田んぼの脇に停めて、降りて駆け寄ってみると、甲羅にドロをつけた大きなカメさんが、顔を中に引っ込めて、目だけ私を見ている。

ついほほえんで、「おはよう」

カメさんはやっぱり恥ずかしそうに首をすぼめたまま。

「川へお帰り」

カメさんの甲羅を両手でひょいと持ち上げて、田んぼの畦に移動。

カメを動かすこの時間が、なんとものんびりゆるやか。優しいひととき。

 

ちなみに、カメでなくガマガエルの時もあります。同じように、両手でします。甲羅でないので、ちょっとむにゅっとします。

@2016.7.9

成長の不思議

最近ぼーっとして、車をいろんなとこにぶつけたりする。ここ1ヶ月で4回、いろいろやっちゃった系。

この間、イタチくらいの大きさの子ギツネが道の真ん中でひかれていた。

目をつむるような思いで通り過ぎたけど、急に胸がきゅっとなって、反射的に引き返した。

死んでからも、びゅんびゅん車が体をまたいで、不憫でならなかった。

草むらに寝かせて、そばにあったヒメジョオンの白い花を顔に添えた。口が大きく開いて、歯がむき出しになっていた。さぞ、苦しんだろう。

この子ギツネがここまで大きくなるまで、どんなことがあったのか勝手に想像した。

お母さんに甘えたり、狩りの仕方を覚えたり、兄弟とじゃれあったり、いろんなこと

…。

小さな体が、少しずつ大きくなっていく、その成長の過程って、なんて尊いものだろう。

小学1年生の子どもたちがよく、歯がぐらぐらになったーって見せに来る。

うんていをした後、マメができたーって見せに来る。

名札の安全ぴんがとめられるようになったーって見せに来る。

ひとつひとつの小さな成長って、当たり前のことなのに、胸をしめつけるような愛らしさがある。

この感情はなんなのかな。

とりとめもなくそんなことをぐるぐると考えていたら、ガコン。

気持ちにけじめ、つけないと。ぱっと同時に色を変える!@2016.6.12

春の夜の畑

 

夜ごはんにホウレン草で卵とじしよう

つっかけはいて家の前の畑に入ったら

もう明日の雨の気配

むーんと湿気が漂って、菜の花のにおいが立ちこめて漂っている

半分の月でぼうっとほのかに明るい夜

菜の花の黄色がぼけて浮かぶ

この菜の花も食べちゃおう

柔らかなつぼみもいっしょに摘んでカゴに入れる

野の花かきわけてホウレン草を探す

水がピタッと手にひっつくまだちょっとひんやり春の水

 

春の夜の畑が幻想的なこと、初めて気が付きました

私が家に入った後も、お花のつぼみや土の中のイモムシたちが、ぼそぼそとおしゃべりをしていたに違いありません

@2016.4.16

ほるん入れの棚を設置。

 

ネコがいたずらするので、毎日ケースにしまうのがすごく億劫でした。私の部屋がお気に入りのネコもいるので追い出すのも可哀想で困っていましたが、ドア付きのほるん棚を置けばいい!と薪割り中に突然ひらめき、さっそく設置。

木の鉛筆立てにマウスピースをことん。

これで、ほるんを出し入れ組み立てする手間が省けます♪

 

今日は大晦日。自分のしたいことをする1日にしようと決めていたので・・・

朝起きて歯磨きしてほるん

神社の大杉から聞こえる不思議な鳥の鳴き声をリサーチしながらほるん

たまっていたメールを返しながらほるん

お昼にナポリタン作ってからほるん

お風呂わかしながらほるん

キツツキ追い払いもってほるん ナンテンの赤い実を探してからほるん  餅蒸す間にほるん 年越しそば食べる前にほるん・・・

ということで、一日ほるんを連れて歩いた感じ。ネコの来ないところに、すぐシュッと楽器が置ける、というのは本当に便利。なんで今まで気づかなかったんだろ・・・。

今日はシメの日。終わりの安堵感は大好きです。来年はもっと、ほるんを日常化♪♪

@2015.12.31

寒い日のとりとめのない妄想

ガラスが割れそうなくらい凍りつく夜

早く帰ろうと足早に歩いていると

近くの森に住んでいるくまさんが道の真ん中でうずくまって

寒さで毛羽立ち毛先までぶるぶる震えてしまっている

そのくまさんの手はかちんこちんに冷たい

その氷の温度は私の手を伝わって私のわずかな心臓にまで響き

私の体温を着々と奪いながら一向に融解する気配はない

私はくまさんの手を握り続けることが出来るだろうか

・・・というようなことをふと考えてしまう

冬は優しさの季節です

おそるおそるした控えめな優しさも

堅く毅然とした優しさも

ふたつとも

つきたてのぷっくら餅とともに召し上がれ

ヒトも冬眠すればいいのになと本気でぼやく

真夜中、薪ストーブの火がいつもより暖かな色、目が覚めました。

今夜はなんだか空気の質が違う。夜の色も違う。

そうして外に出てみると、大地は一面の霜、颯爽と満月。

しばし宇宙と会話。

もう冬なのですね。身がぎゅっと締まる。

また今年も、特異な季節がやってくる。

春夏秋冬、どの季節もいいけれど、冬ほど個性的な季節はないように思う。

生命線がぴーんと張りつめて、自然が生命の危機に立たされる、静かな眠りの時間。

真っ白な閉ざされた世界は、あまりにも美しい造形を描くので、つかの間寒さをも忘れる。

総じて、堪え忍ぶ季節。

私も、耐えよう。いつも真っ先に手足が冷たくなってしまうのは、とかげさんとかと一緒で、変温動物に近いのかも…

ヒトも、自然の法則に任せて、みんなと一緒に冬眠すればいいのに。無理してエネルギー消費しなくても。

スズメさんがふくらんだ時のようにぷくぅっと着ぶくれして、みんな街へくり出す。

だらだらと緩いまどろみの中、やわらかい夢を見て、春になったら日の光でむくっと起きあがればいいのにな。

朽木の山々の奥深くは、心洗われる素朴さと優しさを秘めていると感じる。

新米を味見する秋の時期になると、台所のちゃぶ台で、田んぼの一年に思いをはせる。

無農薬、化学肥料不使用、天日干し…今更ながら、その手作業のたいへんさ、力仕事、地道な作業、こんなに手間暇かけているのにこの収穫量。そして粒が不揃い。割りの合わない気持ちになる。

農薬という安価で手に入る白い粉を散布すれば、全てが解決する。倍の(下手したら倍以上の)量のお米が実る。虫食いのない綺麗な粒の美人なお米。

でも不思議と、農薬をまきたい気分には一時たりともならない。

なぜだろう、と考え始めると、ここ能家の素朴で優しいありふれた風景が脳裏をかすめる。

素朴にきれいな野の花、しつこいひっつきむし、イモリの目、カエルの声、地味な蝶々、早い日の入り、朝露の光・・・

ここ能家の土を汚したくないから。たったそれだけの理由かもしれない。

びわ湖からずっとずっと安曇川に沿って遡って、北川に入る。それも上に上に辿っていくと、源に能家という集落があって、そこにたったひとつの田んぼ。他にする人がいないから、山の湧き水、川の始まりの水がそのまま水路を伝って田んぼに入る。人家や他の田んぼを経由しないから、純粋に水がきれいだ。

びわ湖の水の始まるこんな大事な場所で、誰が農薬を使えるだろうか。

下流の安曇川にもびわ湖の水を使う大津や京都、大阪に暮らす私の大切な人々を思うと。

少しだから大丈夫、薄まる、見えないからいい、という小さなシミが大きな問題となって子どもたちの未来を脅かしている今の状況を思うと、たったひとつの田んぼの心がけって、やはり大切なんだろうと思う。


農業とは、もともと自然発生的に、人が自然を一部利用して、自然の都合をみながら、とりすぎず欲張らず必要な分だけ頂戴する、という自然と人との信頼関係のもと築かれてきた、”生きるための用事”なのではなかったのだろうか。

 

・・・というようなことを考えていたら、ちゃぶ台の上のごはんが冷めちゃう。

大きさが小さかったり形がいびつなため、はじかれてしまった粒たちを、うちは食べる。

”種の味がする・・・”

そういえば、ごはんは植物の種なんだね。

そのものの生きる原点がすべて詰まっている。

 

おいしいお米、きれいなお米を作ろうと思ってはいない。

言うなれば、味も見た目も重要ではない。高価で誰が食べても味の違いのわかるプレミアム米なんて目指してない。

この地を汚さず、この地の自然が持つありのままの力を発揮してシンプルに出来たお米がよい。

それが、おいしかったらなおよい。

そういうお米を、私のお世話になっている周りの人たち、大好きな人たちに口にしてもらいえたら、なおよい。

 

たぶん、ばか正直で不器用だけど、土地や故郷を好きになる気持ちは、人を好きになる気持ちとどっこいどっこいなので、理不尽だけど仕方のないことなのです。

この猫たちを生み出した作家の手は、ひとつのことをまっとうに、一糸ぶれずに、威厳を持って、信念を貫き通しました。

この温かな陶芸は、いつも玄関から、ここに暮らす私たちを、生きた猫と同じような視線で、見下ろしている。

・魂を込めてモノを作る(生み出す)。

・一生を捧げてモノを愛す。

・我を忘れてひとつにこだわる。

どれも同じことなのかもしれない。

いつもこの陶芸家の方の、芯のぶっとさを心の真ん中にどしんと置いて、この暮らしのつらいときの指針にしたいと思う。

能家の長老、きちぞーさんに戦争のお話を聞く。

実際に中国やベトナムに赴き、生き残って帰国され、96歳の今も元気でおられる。

戦争を経験した人の言葉は、国会なんかで安全保障がどーのこーの言う知識人のどんな理論よりも、重く説得力がある。

終戦を迎えて日本に帰国した時、日本の国土に降り立った感動は忘れられないという。

「日本の土は、気持ちええ・・・」


そういえば、ホンジュラスもインドもタンザニアも、やせた土をしていた。乾いた色の砂だらけだった。植物が育つことが不思議なくらい。

日本の土は、水を含んで柔らかく豊かだ。

日本は、都市化してその個性を失いつつあるけれど、もともとは素朴で優しい森林に包まれた自然豊かな国だった。

土を好きになると、故郷が一段と恋しくなる。

@2015.9.24

稲刈りした田んぼでヒコーキを飛ばした。

ケント紙でできたヒコーキは、やはり羽が少し曲がっていたりするだけですぐに墜ちてしまう。

機体と羽の角度から接着剤の重さまで大事。飛ばす時の風も大事。うまく飛ぶには全ての「バランス」の帳尻が合っていること。

遊んでいた小さな子どもが言った。「とんびのひこうきは、よう飛ぶなあ」

見上げるとトビが大空を大らかに旋回していた。


飛ぶことへの憧れは、いくつになっても忘れないと思う。

@2015.9.19

人が手足を使うとき、楽したいという本能から、知恵をしぼる。当然のこと。

この知恵が、機械仕立ての現代日本の生活で、埃をかぶってしまっている。

人が手足を使うとき、楽したいという本能から、人と人との関わりが生まれる。

それも必要なくなってしまっている。

これらを失うくらいなら、私は多少の不便さを選ぶ。

不便だから不幸ではない。

手足を使うのが無駄ではない。

時間(スピード)やお金に換算してすべてのことを考えてしまったら、不便の温かさを忘れてしまう。

稲を刈ってくくっていると、親指の爪の間がさけてきて、ポテチの袋が開けられなかった。隣に居る人が代わりに開けてくれた。

痛いけど笑えた。

人間らしい不器用さは、温かみがあって、むしろ好きなのです。

タンザニアの海は、きれいな水色をしていた。

島の最北、田舎のビーチ。近年、その美しさが知られるようになり、観光客が増えた。

村の民家より豪華なホテルやヨーロッパ系のレストランが軒を連ねる。客引きの現地人がひっきりなしに英語で話しかけてくる。

無性に悲しくなってしまった。

昔はきっと素朴な海だったのだと思う。

スワヒリ語ののんびりしたイントネーション。

人も風景も、その土地らしさをまっすぐに持っていた。

観光客がその地をだめにする。

私は旅する自分を責める。だから、旅したら、なるべく観光をしないでおこうと思う。その土地の日常生活をそっと見せてもらって、あまり大騒ぎせず静かに帰って来たいと思う。

そして、自分の身の振り方を見つめる。

私の流儀とは。

@2015.9.17

朝露の形がきれいで、朝早く起きると見入ってしまう。

雫の中に世界の始まりが映されているような気がしてそのまま童話的思考に走る。

朝の雫、夏の終わりと秋の兆し。@2015.8.16

旅する人が来たら、ついお世話をしたくなる。

それは、私自身、まだ日本や世界の広さを感じられないでうずうずしていた時代に、心をぎゅっと拳のように堅く握りしめて、不安な旅を繰り返したからだと思う。

その時、旅の先々で、いろんな人に温かくしてもらったことを、今でも忘れられずにいる。

青森の寒い日の、薪ストーブ。帰る手段を無くした私を、まるで何かからかくまうように親切に温かく。

小笠原の白内障のおじいちゃんも、過去船乗りだった時の宝物を見せてくれた。

私は、もう会うことの出来ない、この人たちとひとつの約束をしている。

この時の恩は、また私の所へ旅人がたずねてきたときに、その彼または彼女に向けよう。

海2回目。7月31日、絶好の海日和。

福井常神半島でスノーケリング。

アメフラシにいたずらをしたり、岩の隙間を探検したり。けっこういい距離を夢中で泳ぎ続ける。

手足を好きなだけ好きなように動かせるのが心地よい。

スイミーのような大きな小魚の群。黒い煙のように群れて、時折日の光を受けてキラキラ銀色に光る。

海帰り、泳いだ後のけだるさと眠気がまた心地よい。

日焼け、いつもあとのまつり。

夏に1回は海で泳がないと張り合いがなくなる性質で。

近場の日本海へ潜りに。

そこでアオウミウシとご対面。綺麗でびっくりするー!

山には、こんなに綺麗な青色を見ることがとても少ないような気がする。

山の世界は緑色が綺麗。海の世界は青色が綺麗。

海の世界、知らないことだらけだけど、海の中にもちゃんと季節があって、それぞれの生物がそれぞれの事情で生きていることに、何かしらの感動を覚える。

@2015.7.10

今頃の時期の雌シカは、赤ちゃんをお腹に…ってことはない。

こころもち、ほっとしてしまう。

この間、罠にかかった雌シカ。

さばいていると乳腺からお乳がほとばしった。

今もなお、森でお母さんの帰りを待っている子ジカを想像した。細い細い足を左右にふるわせて立つ鹿の子模様の子ども。


いかなるケースにおいてでも、やはりこの行為は不自然の上に成り立つ。

不自然なことは、重力に逆らうことと同じだから、そこで生じる無理なエネルギーは、持続不可能である。

しわ寄せがまたやってくると思う。

大きな津波が街を飲み込んでいくのを、空から悲観的に見るような感じで、否応なく押し寄せて来ると思う。

@2015.6.1

花よりつぼみのこの時期が好き。

花を咲かせる喜びが、つぼみのふくらみにぎゅっと詰まって。

つぼみの袋から透けて見えるベールのかかった花の色が、淡くてまたいい。

つぼみのひとつひとつが、明日の開花を夢見て、うきうき、うずうずしている。

@2015.4.4

暖かい雨。

帰り道、車を走らせていると、道の真ん中に三角の小石。

「ついに、お出まし」

ひきがえるさんが、のそ、のそ。げこ、げこ。

「道中、お気をつけて」

帰って車を降りると、田んぼの方からキャララララ・・・

カエルの声が久しぶりに戻ってきて、今年も田んぼや畑でどんなドラマが生まれるのかな、と笑顔になる。

@2015.4.4

罠にかかった雌シカをさばく。

ごはんの乏しい冬を越して間もない春先のシカは、痩せ細って鋭気がない。

お腹をぱっくりあけると、臓物があって、「やっぱり・・・」目の伏せたくなる現実。

子宮の中に子ジカの赤ちゃん。

胴体長30センチあまり。薄い膜の向こうにしっかりと閉じられた大きな目。

ひづめも、もうしっかり組織ができていて、鮮やかな黄色い色をしている。触ったら、ふにゃふにゃと柔らかかった。

深刻なシカの食害による山荒れと、市の獣害対策。現場で、何にも理解できないまま命を絶たれる健気なシカたち。それを目の当たりにする猟師さん。

@2015.4.2

   子どもの頃から月が好き。
   子どもの頃から月が好き。