Unas Poesias   ホンジュラスで びびっと きた

エスペランサ

標高1600Mのところに位置する「エスペランサ」という街。

皆が口を揃えて「エラードエラード(寒い)」と言う。ホンジュラスで最も寒い街だ。今日も15度前後といったところ。

寒くないじゃん、って思うかもしれないけど、暖房器具、ストーブ、こたつなんてないところだから、逆に同じ気温でも日本より寒く感じる。

山岳地帯だからか雲も多く、灰色の空が淋しい。道は未舗装のため、すごい砂埃、そのせいで空気、家、植物なにもかもが赤茶けて煤けた感じ。

「エスペランサ(Esperanza)」=「希望」という意味なのに、ここ、どうしてこんなにくすんでいるのだろう。

レンカの女性たちは男より賢明で働き者と言われるが、その通り、生まれて間もないような赤ちゃんを負んぶして、野菜や花を朝早くから市場に並べる。

ここに住むレンカ族の顔つきは、少し違って、土気色、顔型は丸か四角が多い気がする。

ピンクのカーディガンに緑のスカート、赤のニット帽。色とりどりのチェックの織物を頭に巻いて、それらの鮮やかさは寒さを拭う。

ああ、だからこの街はエスペランサなのかもなあ。

 

彼女らが懸命に働く姿を目にして、寒い冬に初春の兆しを見た時の気持ちに似ている…と感じた。

色鮮やかな衣装が、春先に咲く花のようで、陽の光が当たっていい感じの影をつくる。

 

薄暗い市場の中に簡素な食堂があり、木のベンチに所狭しと腰かけ、仕事の合間をぬって休憩する。珈琲(4L=約24円)やパン(2L=約12円)など。

激甘の珈琲。日本人の私たちは「なんで???」口にできないほどの甘さ。珈琲の味覚を失うほどの甘さに絶句する。

寒い市場で物を売った後、ほっと一息というところに、あつあつの甘い珈琲。

レンカ族の口から、熱い甘さがじぃぃんと咽喉から胃に流れ込み、土気色の体の細胞に糖分が浸透していくのを思い浮かべたら、なんか、わかる気がした。

ここで、ブラックは飲めない。

 

見も知らぬ外国の文化と見も知らぬ人の人生が、こんなにとくとくと胸を打つなんて。

 

へんなの。

魂の椅子

 

草の丘を少し登って、たどり着いた。

ふ・・・ となめらかな風が通る。

それは私の身体をすり抜けた。一瞬にして透明になる。

小さな手作りの木製ボートでマングローブをたたえた緑色の川を行く。

そして現れたのは、離れ小島に在るクナ族の墓地であった。

茅葺屋根の小さな神様の家々がひっそりと広がっているのだ。

虫の声。葉の揺れる音。

駆け巡る子どもの頃の夏の思い出。

シナプスがはじける。

かくれんぼして引き出しの奥の奥に何年も隠れていた思い出たち。

鬼だったやんちゃっ子は、夕方になってお腹がすいちゃったから、ひとりでお家に帰ったんだよ。

でも私は探しに来てくれるのをずうっと待ってたんだね。

今になってやっと、そのまま消えゆくはずだった小さな小さな思い出たちを、何かの間違いで大人になってしまった私が、そうっとすくい取る。

 

あまりに美しい。

ひっそりと佇むクナ族の人々の人生。

 

クナのおじさんは言った。

「本当は観光客がお墓に足を踏み入れるのは禁じられている。しかし、今日はお正月で、みんな遅くまで寝ているのでこの時間にお墓には来ない。それを利用したのだ。」

「利用する」という動詞はスペイン語で「aprovechar(アプロベチャール)」。これを「利用した」という過去形にすれば「aproveche(アプロベチェ)」

おじさんの片言のスペイン語のこの文節が「aproveche(アプロベチェ)」で終止したのだが、「チェ」につくアクセントが妙に強調されていて、この響きが未だに頭を離れない。

身も知らぬ外国人である私に、自分の親族のお墓を見せるという行為は極めて私的な行為であるに違いない。何故この人は私をここへ連れてきたのだろう。

こんもりとした土の墓。土葬である。祠の傍にことんと置かれている掛け時計。秒針は止まっていたが、何時だったろう。記憶していない。彼のお父さんが愛用していたものだそうだ。

墓の周囲には薄汚れたプラスチックのお椀やコップが無造作に並べられている。

クナ族は死者の遺品を全てこの島に持ってくる。何ひとつ家に残さない。故人を思い出さないために?しかし、毎日かささずお墓の掃除に来るのだという。

墓をよく見ると、どの墓にもまばらな大きさの丸太が、墓を見守るようにして置いてある。

「魂が座るために椅子を」と彼は説明した。

 

「魂が座る椅子」

 

私がずっと探し求めている椅子はここにあるんじゃないか…直感でそう感じた。

オシャレな揺すり椅子でもふかふかのソファーでもない。ただ幹を切ってあるだけのこの古びた小椅子が、いつか私の落ち着くところなのかもしれない。

 

さあ    戻ろうか、と振り返った風景。

ひとりの神のような存在が小椅子に腰かけていた。

あまりに素朴な自然の一風景であった。

 

その後何日かコスタリカ国境沿いをふらふらした後、ホンジュラスの家に帰って、いい感じにくたくたになったリュックをベッドにどさっと置いた。

その晩、ロウソクの火を燈し、武満徹を聴いて、ひたすら旅の回想をした。

自然神が私の心に居座り始めたのは、この時からだった。

グミの実

ざらざらして

ぷにぷにして

薄いこの皮膚に傷をつけたら

朱色の汁がほとび散りそうな

これ、誰かの肌の感触と似ている

誰だったろう

アトピー肌で小太りの女の子

グミの実の肌をしたお友達

 

そのぐみの木も、枯れてしまった。

山の畑に行く道沿いに

鈴なりの実をつけた

大きな大きな赤いぐみの木

 

おばあちゃん(アブエリータ

毎朝、隣の家のガキんちょが「Abuerita!(アブエリータ!)」と叫ぶ。「おばあちゃん」を愛称で呼んでいるのだ。なんとなくイントネーションが雑。

私も小さい小さい頃は、動きのゆっくりなおばあちゃんのこと、ばばあ、なんて言ってたけど、訳せば、そんな感じなのかな?

山に住む田舎の人々は「おばあちゃん」のことを「Nana(ナナ)」と呼ぶんだそう。

なんか、響きがとても、やわらかいなあ。

 

遠い昔に死んだおばあちゃんの、後ろ姿とか声とか、頭に巻いてた手拭いのにおいとか、地味色のがま口の小銭入れなんかを思い出した。

そういえば、今日はおばあちゃんの命日だ。

吹雪の夜だった。明日に受験を控えた高校生がひとり制服のまま、ほのかに明るい外灯の下にぼーっと。

状況を呑み込めず、ただ、寒さを感じない自分が不思議だった。

ホンジュラスはそんなん関係なく、だらだらあったかくて、今日なんか、黄色いマンゴー食べちゃった。

 

ホンジュラスのクリスマスのミサ。教会で隣に居合わせたホンジュラス人のおばあちゃんが、死別した私のおばあちゃんだったので、思わず胸が高鳴った。

話しかけようかと思った。

でも、おばあちゃんがスペイン語を話すのを聞いて、これは人違いだ、と言い聞かせることにした。

 

最近、路上強盗が多発している

クリスマス、年末年始と出費のかさむ時期が過ぎ、お金のない人が犯罪に走る。

私の仕事仲間は夜2人で歩いていて、酔っ払いに調理ナイフを腰に突きつけられた。

私のママは日中に、刀でおどされて身包み剥がされる女の子を目撃。

ときたま深夜に銃声。

ここ一週間で、こんな小さな街で。

 

夜、ひとりで帰途についた。職場から家まで約5分の近い距離だ。

さっきまで停電していて、街は車のライトだけだった。

星の綺麗な晩だった。

停電の夜は、星が一粒一粒ダイヤモンドみたいに瞬く。

私の家の近くは所々、外灯が十分でない。

上り坂の向こう側から2人の男の影が向かってくる。

若そうな2人組み、帽子を深くかぶっているようだが、よく見えない。

少し、戸惑った。

すると、すれ違い際、ひとりの男がさっと一歩私の方に歩み寄り出てきた。

私の心臓は“トクッ”と音を立てた。

Hola(やあ)」とひと言、そのまますれ違った。

 

“トクッ”

私の心臓の音、私の耳にこべりついて離れない。

“トクッ”

こういうふうに、いとも簡単に、ころっと橋から転げ落ちるんだな。

薄い皮膚破れば鮮血が噴出す、このやわい身体を頼りに、私は明日も明後日も1年後も、今日のように生きる気でいる。

なんかしらんけど、ふと、涙が出てきた。

なんかしらんけど、いま、会いたくなった。

なんかしらんけど、もう会えないような気がした。

 

 

なんかしらんけど、たまには弱音を暴露してみようかと思いました。

今日はお母さんの誕生日だった。

54歳になった。

メールを送ったら返って来た。

「お父さんがケーキとプリンを買って来てくれて、ワインでお祝いしました」

確か、去年もそうだったと記憶している。

ってか、毎年同じなんじゃないかと思う。

ワインはセブンイレブンで売ってる600円ぐらいの赤ワインだろう。

お父さんはワイン通な割に、いつも何か少しめでたいようなことがあるとこの安物ワインを買って来て、自分がほとんど飲む。

「お祝いしました(oiwaishimashita)」

この丁寧語がなんとも柔らかで私の心をじぃんとさせた。

幸せが、いろんなところにこぼれていたことに、ここホンジュラスで気づく皮肉さ。

多くの人は幸せを探そうとするが、そうではなく、幸せを察知する感性を磨くことが先決なのではないかと思う。

私の誕生日でもないのに、私はケーキもプリンも食べてないのに、私は母の笑顔も見ていないのに、こんなにあたたかい気持ちになっている。

なんて不思議な幸せの形だろう。

 

あったかい珈琲を飲もう。このあったかさがさめないように…

La Campa(ラ・カンパ)

という村にふらっと出かけました。

バスが11本しかなく、日帰りするにはハロン(いわゆるヒッチハイク)でしか行けない、ホントに鄙びた村。

私の住むサンタロサ(Santa Rosa)からGracias(グラシアス)という街までバスで2時間。そこから、ごつごつの白い道を砂埃巻き上げて車で40分ほどでこの村に着く。

山の斜面の岩に白い字で「La Campa」という文字、風の静かな偏狭の土地…

雲が流れ山に影が落ち、時折舞い上がる砂埃が、メキシカン風のツバの広い帽子をかぶったおじさんの後ろ姿を遮って、趣深い。

遠くの家でじゃかじゃか鳴ってたレゲトン(レゲエ)が鳴り止むと、風の音がふっとやってきてやわらかい感触を与える。

お昼時、トルティーヤを作る音が聞こえる。パンパンパン。こねた粉を薄くするママの手つきを想像する。

 

村の出口の分かれ道で、乗っけてくれる車を待つ。全然通らない。ま、いっか。来なかったら明日帰ればいい。

身体とノートと鉛筆、これさえあれば時間は美しく流れる。

待つこと1時間弱、トラックがやってきて、快く乗せてくれた。トラックのギアの横にスペース作って、パノラマの景色を楽しみながら帰る。

運転してるおっちゃんに「Esta cansado?エスタカンサード(疲れた?)」って尋ねたら、「Esta casado?エスタカサード(結婚してる?)」に聞き間違えられ、一瞬変な雰囲気に…。嫌な予感。気があると勘違いされ、ラテン人お得意の口説き文句がつらつらつら…。

帰ってLa Campaという村の風景を頭に想いおこしながら仰向けになって眠りに落ちる。

「精神は、いつも未知な事物に衝突していて、既知の言葉を警戒している」(小林秀雄)

 

精神が日々受けている小さな小さな刺激がプスプスはじけているのを感じてやりましょう。

レモンのにおい

木になってる実を棒でつつき落とす。

バレーボールみたいな大振りのレモンの実をほっぺたにすり寄せる。

レモンの皮膚はごわごわしてひんやり冷たい。

レモンのにおい。

 

レモンのにおいが私の水色の身体にいい具合に混じって、柔らかいみどり色に染めていきました。

lal isla  Guanaja

ホンジュラスのカリブ海には大きな島が3つあって、その中でも一番遠いグアナハ島に行ってみた。ひとりだったし、休暇のプランなんてなかったけど、船着場に行ってみたら、週に2便しかない船が今まさに出港しようとしている。

はじかれたように、つい飛び乗った。そして、意味深な旅が始まった。

山は深く、緑は明るい太陽光にひたすらきらきら反射して、海はもちろん、空と同様青い。3つの島の中で最も自然の残る島と言われるだけに、観光地化されていない、そのまんまの自然の風景が転がっている。

Fin de Mundo(世界の果て)という名の砂浜がある。

波の音と木のざわめきを音楽に、青色だけを見つめながら、波打ち際に沿ってひたすら歩くこと45分。

グアナハの先っぽ。

 

あまりに静かな海

ひとり流れ着いて、

ひどく綺麗な貝殻たち

 

どの家をノックしても

みんな留守だった

 

何処へ行っちゃったんだろう

こんなに静かなお家を残して

こんなに美しい残骸を残して

 

だあれもいない。

わたしもいない。

なあんにもない。

 

こんなに真っ青で、みんな大丈夫?

青色の神秘(カリブ海編)

 

青い海 青い水 青い珊瑚が広がって 青い魚 泡までも青い

おや 気づけば 青一色

広々とした青が果てしなく遠く

 

手足を思い切り開いてカエルみたいにぐいと伸ばした

やわらかい水の感触

両手を青色にかざしてみると 私の手までもが青く染まって…

ん?

本当に青いよ 私の手 裏返してみても

手をグーパーしてみると感覚がない

指をこすりあわせるとぬるぬるしてくる

まるで溶けていくような水の感触

水の青色と同化していくという納得

そういうことか

私は焦ることもなくむしろ当たり前のことのように受け入れていた

足をばたつかせた

同じく足もすでに青く くらげのようにひらひらしていた

フィンが外れマリンブーツがぬげていく

スノーケルで息を吸い込んだら水が肺にはいったのを感じ

吐いたと同時にマスクも外れた

そのうち私は溶けてなくなった まるでマーブリングのよう

マリンブーツが片方、後でぽかんと浮いた

それも青かった

 

こうして海に同化していく人たちがいるということ

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

カリブ海の青色が まるで油汚れのようにこべりついて頭から離れない

青い海で ギアをニュートラルに 

一歩間違えば水に飲みこまれてしまう

海という大自然に身ひとつ任せて あまりにちっぽけな私が懸命に泳ぐ

太宰治の小説の中に、ある女の子が目にしたきれいな雪景色を眼球にためておいて、家にいるお姉ちゃんに見せるんだ、という、美しい一節がありました

私の眼球にも旅先の美しい風景がめいっぱいたまっていて

そのうち青い目になってしまいそう

ミッキーマウスの雲
ミッキーマウスの雲

お空にうかぶあの白いものを 

あなたたちは何と

よんでいるのですか

 

ああ 

あれは 

くも 

だよ。

 

KUMO

 

そう KU-MO

 

 温かい響きのする言葉ですね

旅立ちの起因

私の周りに所せましと張られていた電柵は拘束力をなくした

人の服着てるみたいな違和感はなくなった

両手を空にぐんとのばして深呼吸ができるようになった

私は 海から陸にあがって初めて息をしたヒトのように 空気をわざと大きく吸った

 

そういえば

私が地球儀をほしがった頃

まだロシアがソビエトだった

大きな青い地球儀を両手でぐるぐる回しながら

買って 買って とねだった

おじいちゃんは言った

「もうじきソビエトの国名が変わるさかい、もうちょっと待ちいな」

でも当時の私にとってはそんなこと どうでもよかった

ただこの青い地球儀がほしかった

おじいちゃんはしぶしぶ地球儀を買う羽目になった

 

この時から世界の土地に見果てぬ夢を描いて

25歳の私は旅立った